通り雨

短編のほうできました。
【人形】【濡れ鼠】【熱い】
ん? ドリル? ビーム? なんこと?


【人形】【濡れ鼠】【熱い】


 最悪だ。
 夏休み三日前。楽しみを前に、みんな浮き足立っている。
 しかし、僕の気持ちは最悪にブルーだった。
 十年間という長く厳しい人生の中で、もっともダメで運のない日として認定されてしまえるぐらいに最悪だ。
 悪い出来事というものは、ひとたび起これば次々に重なるもので。
 宿題を忘れることにはじまって、給食のスープをこぼす、返ってきたテストは百点満点中の七点で(解答欄がひとつずつずれていた)、水泳の授業中に水泳パンツが脱げる、トイレ(大)をクラスの連中に見つけられる、挙句の果てに、いまこうして雨に濡れながら走っている。
 夕立だった。
 激しい雨がここぞとばかりに降り注ぎ、視界をおぼろげにさせる。
 僕は家路を一心不乱に駆けていた。
 毛の先からランドセル、ズボン、運動靴にいたるまで、もうどうしようもないくらいにずぶ濡れだ。
 教科書はすっかり濡れてしまっただろう。
 リコーダーは分解しないといけない。
 もう正直、いまさら全力疾走したところで、手遅れなのは変わらない。
 そもそも家まで全力で走り切れるはずがない。
 それでも靴をびちゃびちゃ、ズボンをビタビタ鳴らしながら走る。とにかく走る。
 身体が重たい。濡れているからだけじゃない。雨特有の、どっしりというか、ずっしりした感覚が世界全部に溜まっているからだ。ちょうど、シリコンを流し込むようにして、どろりと、しかしはっきりと僕の動きを鈍らせる。
 だから雨はキライだ。
 いい加減に限界だった。あまり走るのは得意じゃない。マラソン大会じゃ、太っているやつらを除けば、僕が最下位、それぐらいだろう。なんていうか、走ることって面倒くさいし、しんどいし、なんというか、嫌だ。特に長距離はキライだ。
 キライなことを無理矢理やらされるから余計にキライになっていくわけで、こうやってキライなループが続いて人間駄目になっていくのかなあ、なんてことをなんと十歳で悟ってしまった僕はそりゃあもう秀才というより天才で、周囲から神童だなんて讃えられたり奉られてしまっていたりなんか、は、まったくない。
 ガタガタ、背中でランドセルがわめいている。
 頭の上ではゴロゴロ、雷が騒いでいる。
 ちくしょう、笑うなよ。


 いつもよりはやく坂道に差し掛かった。ここから家まで、ずっと下り坂が続く。
 両端を新築の──悪く言えばスタンプで押したような同じ形の──民家が立ち並ぶ坂道を、さらにスピードを上げつつ降る。 膝への衝撃が増す。
 ここからはストレート。舗装されたアスファルトは、車が二台通れる程度。中央の白線も、脇の歩道もない。集合住宅地の中の坂道だ。
 だからここから僕の家は良く見えた。
 青い屋根の、両サイドと同じ形だけれど、何故か僕の家だと一目でわかる。
 いやらしい雨に邪魔されながら、僕は走っている。視界はよくない。
 途端、足が絡む。
 重心か傾く。なんとかバランスをとろうとし、両手をばたつかせる。間に合わない。咄嗟に手を前へ。ぐんぐん近づくアスファルト。少しだけの浮遊感。だめだ、いけない。がむしゃらに、少しでも抗おうとする。一瞬のやりとり。凄い速さでやってくる諦め。でもいま転ぶと、非常に、まずい……。
 しかし、転んだ。
 膝からは血が出た。膝だけじゃない。転んだときに手をついたから、手のひらからも血が出た。ランドセルの中身が飛び出ていた。眼下に転がる教科書や筆箱、リコーダー。
 そして、小さな人形。
 紙粘土で出来たそれは、割れていた。
 あぁ、そういえばそうだった。
 僕はこの人形を一生懸命作ったのだ。
 それはもう丹精こめて作り上げた、可愛らしいパンダの人形。
 夏休みに入る前に持って帰ることになって、そして僕はそれを持って帰る途中に夕立に襲われて、ずぶ濡れで、僕はこのパンダが溶けてしまうのではないかと心配で、必死で、懸命に、走ってきたのだけれど、けれど。
 泣いた。
 とびきり顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。
 雨の音より大きな声を出して、泣いていた。無意識のうちだった。
 とにかく悔しくて、何が悔しいのかわからないまま、とにかく悔しかった。
 砕けてしまってもう戻らない人形。
 ただそのことが哀しくて、悲しくて。
 痛みよりも何よりも、僕は辛くて泣いていた。
 目尻が熱くて、どうしようもなく涙が出た。
 止まらなかった。




 やがて雨は過ぎ去って、夏特有の、遅い夕日が照りつける。
 濡れたアスファルトのにおいを感じる。
 僕は教科書を拾い集めて、筆箱を仕舞い、リコーダーを握り締めた。
 壊れて、雨に晒され溶けてしまった人形がそこにある。
「ごめんな」
 別れを告げて、歩き出す。


 その日は、僕にとって最悪な一日だった。