チャイナドレスっていいよね!!


今の職場で、自分は「この仕事が好き好き好き! 大好き! フランジのにおいサイコー! 職場サイコー! みんな面白くて楽しい人だよ! 上司は優しいよ! 仕事内容だって易しいよ! 給料だって相当貰えちゃうんだ! 福利厚生だってしっかりしてるし、何より大企業だよ! 自分はこんな素敵な場所に入社できて幸運だなあ! 万歳! ばんざーい!」って思い込まないとやってられないのだろうか? そうすることが自分にとって最善なのだろうか? たった半月で自分は何を思い込んでいるのだろう。自分はそもそも働くことが嫌なのだろうか。違う気がする。何が嫌なのか。何がキライなのか、何が不満で、何が不安で、何になりたくて、何を求めていて、何が自分にとって重要で、不要なのか。考えれば考えるほど自分がぐしゃぐしゃになってゆく。ぐっちゃりとひしゃげてしまったままの自分を無理矢理に押し込んでいまの「模範生」を演じているような気持ちになる。役作りだ。自分はこの仕事が好きで、真面目で、皆様には無害ですよ、そんな役を演じたい。だから必死で自分の素直な気持ちを歪める。昔からそうだった。考えてみればテニス部。思い出してみれば高校。振り返ってみれば大学。自分は『これでよかったのだ』と思い込みながら進んできた。後悔しちゃいけない、後悔することは罪だとでも言いたいぐらいに、自分を潰して、型に詰めて、不満を観ないようにしてきた。その結果がこれか。一番目のピンを間違えて打ち込んだがために、ピンは延々と曲がってゆく。結局、どこからが間違いで、どうすれば良かったのか、そんなもんは、間違えてしまった自分にはまったくもってわからない。ただ、間違いながらもただ自分の「間違った正解」を選んでいっただけだ。正解だと、いまの自分はいまを正解だと思っているのだろうか。それは本当だろうか。結局のところ、自分は何が不満なのだろう。不安なのだろう。以下略。本当にわからない。わからなくて腹が立つ。どうしたいのか、どうすればいいのか。いま仕事を辞めること。それが本当に正解なのかわからないし、いま辞めたら次に職に就けないだろうとか、他の人へのメンツが〜、とか……。そんなことばかり考える。自分の素直な気持ちはなんだろう。素直な気持ち。じっくりとしっかりと落ち着いて考える。辞めたい。そして、ホテルマンになりたい。本当にホテルマン? なぜホテルマン? 自分は、ホテルで働いているとき、ホテルマンの人たちを、フロントの人たちを見てきた。たしかに楽な仕事じゃない。お客様に謝って、朝から晩まで働いて、夜勤して、どこにも楽な要素がない。でも、それでも、何か憧れる何かがあった。だから自分はあの人のようなホテルマンになりたいから、だから自分はホテルマンになりたい、と思った。そんな願望を持つことは、そんな希望を持つことは、そんな儚い思いを持つことすら、自分には許されはしないのだろうか。自分がやってきたのだから、といって仕事を続けろという父。仕事を辞めたところで、将来が辛いだろう、っていう友。まだはじめたばかりで何を言う、と。どうしたらいい。自分の一度しかない人生だ。例えば辞めたとして、いや、例えば、なんて表現はやめよう。辞めることは不安か? イエス。不安。だって、次の仕事は見つからない。こんな一ヶ月で辞めたような人間を誰が採ってくれる? 見つからないさ。仕事は。たとえ見つかっても、そこもまた、続かないかもしれない。延々と繰り返してしまうかもしれない。でも、いま勇気を持って辞めたなら、いまからの人生は変わるのだろうか。もう二度と来ない22歳の一日を、いまのままでいいのかな、って気持ちで過ごしていいのかな。周囲の人への気持ちと、自分の強烈な願望、欲求。その二つの葛藤で自身がガリガリと削られていく感覚を日々味わう。味わいながら、悩みながら、思考のドン詰まりにいきあたって、ぐるぐると、バターになって溶けられたらいいのに、そんな他者依存によってしか自分を守れない。もしいま、何も考えず、ロボットのように働けたなら楽だったのに。もっともっと油くさくて鉄くさい仕事場が好きだったら良かったのに。もっともっと、もっと、職場のことを知ってから就職すればよかったのに。無数の「よかったのに」が重なって、自分を崩してゆく。よかったのに、のスコップは自分を一山掬ってどこかへと捨てる。そしてまた、掬う。供給が間に合わない。「自分」って部品の供給が間に合わないまま、自己暗示をしながら、いまの自分を強制的に形成して、ジブンを創る。こういったループ。甘えたループ。甘えたれのループ。社会ってのは、こんなにも残酷でした。
以上、考えることすら疲れた。