時刻はまさに丑三つ時だった。
 七人は、そこに立っていた。
 生暖かい風が七人の間を通り抜けていく。
 夜の闇がねっとりと、身体にまとわり付いてくる。
 まるでそれは汗ばんだ手で触れられているような、異様な不快感。
 それすらも圧倒するような静寂。そして暗闇。
 夏の夜だった。
 いたるところで蝉が騒ぎ、昼間の熱気をまだ帯びて火照り続けるアスファルトの熱を感じ、その湿気を含んだ暑さをクールダウンしてくれるような涼しい夜風を感じられる、日本の夏というのはそういうものだったはずなのに。
 いま、目の前にある風景は、それらのどれからも逸脱していた。


 聴こえてくるのは波の割れる音。
 背中を這うようにやってくる寒気。
 潮の匂いが混じる濁った風。
 ここは、東尋坊、雄島。そこへと渡る、地上唯一のルート、『朱の橋』。
 七人は並び、その前に立つ。
 一人の若い男が進み出た。彼はこのメンバーの一番の年長者である。
「走って渡ろう」
 頷く後輩。
「わかりました。……って、え、一人で、ですか?」
「俺は一人で行く」
 即答し、彼は走り出す。
 向こう岸がまったく見えない暗闇の中へと、全速力で駆けて行く。
 その後姿はすぐに消えて見えなくなった。


 波の割れる音がする。
 きっと橋の下は中々にすごく荒れているに違いない。落ちたらたぶん、死ぬ。
 ただ橋は頑強に固定されているし、石造りだし、万に一つも落ちるようなことがあるはずがないだろう。あったとして、それは大嵐だったり、人為的な行動であるとしか考えられない。そう、自分に言い聞かせる。
 待ってくださいよ、と言葉をつなぐ。
 けれど足は進みださなかった。先輩の背中はもうまったく見えなくなっていた。
 風が残された六人の間を通っていった。まるで湿った手で撫でられたような不快感が襲う。
「……どうする? みんなで行く?」
「みんなで行ってどうすんのさ。そんなの、おもしろくないじゃん」
 おもしろく、か。
 おもしろいはずだった。笑いながら心霊スポットを巡って、それで、帰りにコンビニでも寄っていつもように漫画を読んで、ジュースでも勝って、それから、それから……。
「じゃあ、二人組みで行こうさ」
 誰かが言う。咄嗟に、となりの一人に声をかけた。
 いっしょに行こう。相手も、いいよ、と答えた。すぐにペアが決定された。
 決定されたなら、すぐに駆け出した。こういうのは勢いが大切なのだと、その言葉で頭を埋めた。
 そうでもしなければ、一度でも思いとどまってしまったなら、もう次はないだろうから。次の一歩が踏み出せるのは、最初で最後。
 駆け出す。夜の闇が視界を奪う。かまいやしない。全力疾走。


 走る。
 耳元で風を切る音がする。風音で聴覚がいっぱいになる。混じる波の音と、併走者の息遣い。


 走る。
 目の前に明かりはない。あるのはただ、地上からの乏しい明かりに照らされて浮かび上がる朱色の手すりだけ。
 まるで闇に向かって落ちていくよう。ただじいっと、先の先、見えないはずの向こう側を目指して走る。
 咄嗟に、先ほどの言葉が蘇る。
 落ちるとしたら、人為的。
 人為的? つまり、落とされる?
 誰に? 併走者か? 違うだろう。きっと二人ともが落とされる。
 一度悪い言葉が湧き上がってきたならば、後は埋め尽くされるまで一瞬。
 自分はもしかしたら向こう岸にたどり着けないかもしれない。いや、自分だけじゃあない。先駆けて走っていった先輩だって、ずっとまだ、闇の中を走っているのかもしれない。だって、あるはずの向こう岸なんてないのだろうから。


 走る。
 視界が埋め尽くされる。隣を見た。隣では、友達が一生懸命走っていた。
 笑っていた。
 少し、救われる。


 走る。
 まだ走る。たどり着かない。まだたどり着かない。
 こんなにもここは長い橋だったのだろうか。写真で見た限りでは、そんなに長いことはなかったはずなのに。いや、一度も着たことがなかったのだから、本当は長かった、それだけのことのはずだ。


 走って、走って。
 次第に浮かび上がる、石造りの鳥居。
 先が見える!
 もうその頃にはすっかり息があがってしまって、奇妙な浮遊感があった。
 果たして自分が走っているのか、それとも景色が動いているだけなのか、それすら解らないまま、ただがむしゃらに、鳥居へ向かって走った。
 足場に変化が訪れた。
 石造りの橋からいっぺん、砂利道へ。
 いや、砂利道じゃなかった。そこは崖になっていた。
 少し斜めに道が曲がってたので、そのまま突き進めば落ちて、ただでは済んでいなかったろう。
 石造りの鳥居の前に、先輩が立っていた。
 あぁ、この橋を渡りきった、という感情が心の中を埋め尽くしていた。
 そこには安心も安堵も満足も、何もない。ただ、走りきってしまった、ここにたどり着いてしまったという、恐怖だけで満たされていた。
 併走してきた友達が、言う。
「鳥居から先はやめておいたほうがいいです。膝丈ぐらいの草で覆われてますから。いけて階段まででしょうね」
 先輩は少し残念そうな顔をしたように見えたが、すぐに諦めてくれた。その辺りの空気の読み具合は流石に、年長者であると感じた。
 その後、普通に、ゆっくりと歩いてやってきた残りの四名を恨めしそうに思いながら、合流した七名は島を去る。
 雄島を逆時計周りに廻ると帰れなくなる。
 その言葉がずっと、頭に染み付いて離れない。
 自分は廻ってみたかったのだろうか。この深夜に。暗闇の中で。この、岩と草に覆われた、孤島の中を。……本当に?



 帰りの橋の間、ずっと振り返ることができなかった。
 自分の視界の端々には、もうすっかり、闇が迫ってきていた。